布幣・空首布の買取事例|古代中国の金属貨幣 

古代中国で初めて貨幣として流通したのが貝でした。はい!宝貝です。中国の影響を受けた日本のお金に関する漢字には貝が使われていますね。貨幣・資金・財産など・・・・・その後、青銅器で作られた貨幣にかわっていきます。もう紀元前何百年前の話です。この青銅器で作られた貨幣には、刀幣と布幣があります。今回は布幣の買取商品を紹介しますね。春秋時代の古代貨幣です。

春秋時代 中国,東周 (→周 ) 時代の前半をさす。周の平王が都を鎬京 (こうけい) から洛陽に移した平王1 (前 770) 年から威烈王 23 (前 403) 年あるいは貞定王 16 (前 453) 年までをいう。名称は孔子が編纂したと伝えられる『春秋』に由来する。元来周王室の東遷は異民族の犬戎の侵入のためであったから,この時代は有力諸侯が形式的には周王を尊重,異民族を撃退し,中国民族を結合させようとして「尊王攘夷」を唱え,実際は諸侯を集めて同盟をつくり,その覇者として実権を握っていた。斉の桓公をはじめ,「春秋の五覇」と称される諸侯がそれである。やがて諸侯も実権を貴族の卿大夫 (けいたいふ) に握られ,「下剋上」の風潮が現れてきた。旧秩序が崩壊し,新秩序が生れようとする過渡期で,文化・社会面に大きな発展がみられる。

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布幣には、空首布と平首布があります。今回は空首布をお買取りさせて頂きました。昨今の仮想通貨の流通をこの時代の人はどう思うのか興味あります。
※値札は、お客様が実際に当時購入された金額ですので買取り価格ではありません。

大突足布

大突足布
大空首布
空首布

 

空首布

空首布の買取
空首布

空首布
尖ったもの・丸みを帯びたものなど空首布でも様々な形があります。

中国王朝の貨幣

殷(いん。B.C.1600?-B.C.1046?)の時代に始まったとされる貝貨経済。貝貨は文字通り、商品価値、あるいは素材価値を持った貝(当時は子安貝。タカラガイなどに相当)を実物の貨幣として用いられたものであり、それらは一種の貨幣経済として流通された。貨幣の”貨”をはじめとして、”財”、”買”、”貸”、”賣(売の旧字体)”など、経済関連を表す漢字にに「貝」の字が含まれるのは、そのゆえんである。
次の王朝、周(しゅう。B.C.11C-B.C.256)の王室弱体化にともない、封建下の諸侯たちが自立する傾向となり、春秋時代(しゅんじゅう。B.C.770-B.C.403)および戦国時代(B.C.403-B.C.221)が到来した。貝貨は春秋時代まで使われたが、春秋時代では青銅器が普及したことと、富国政策をかかげる諸国の生産力が高まり、製鉄や製塩などといった商工業が発展した影響などから、貨幣は貝貨に代わって、青銅で作られた貨幣が用いられるようになった。青銅器製の武器や祭器の普及により、交換経済が発達、青銅貨幣の誕生を見ることになったのである。春秋戦国時代における青銅貨幣には斉(せい。春秋斉B.C.1046-B.C.386。戦国斉B.C.386-B.C.221)や燕(えん。B.C.1100?-B.C.221)で普及した刀貨(とうか。刀銭。とうせん。刀の形状)、春秋時代の晋(しん。B.C.11C-B.C.376)および晋が分裂した戦国時代の韓(かん。B.C.403-B.C.230)・魏(ぎ。B.C.403-B.C.225)・趙(ちょう。B.C.403-B.C.228)で普及した布貨(ふか。布銭。ふせん。鍬の形状)、楚(そ。?-B.C.223)で普及した蟻鼻銭(ぎびせん。アリの鼻に似ているが、外観は貝貨に近い)、魏や秦(しん。B.C.8C-B.C.206)で普及した環銭(かんせん。円銭。えんせん。円形に穴の空いた貨幣)などがある。環銭の穴は正方形の”方孔”と円形の”円孔”がある。B.C.221年に秦が中国統一を果たすと、貨幣も全国的に環銭使われるようになり、通貨として流通した。円形に穴の空いた形状は環銭が最も古く、5円玉や50円玉など日本の貨幣の原点を知ることができる。
やがて環銭は秦の時代に”半両銭(はんりょうせん)”として生まれ変わった。始皇帝(位B.C.221-B.C.210)は国家統一事業の一環として貨幣統一を行い、貨幣の重さを半分にした(当時の重さの単位が”両”で、1両の半分の重さ。約8グラム)。前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)の時代になると、過度の外征によって遠征費がかさみ、財政が逼迫したことをうけて、5銖(しゅ。24銖で1両の重さ。約3グラム)の貨幣、つまり五銖銭(ごしゅせん)を鋳造し、唐(とう。618-907)の初頭まで用いられた。
後漢(ごかん。25-220)滅亡後、魏晋南北朝時代(220-589)が到来し、統一の機会が長く失われた中国では、長く使われた五銖銭が粗悪になっており、鋳造改革は唐の時代になっておこされた。これが開元通宝(かいげんつうほう。【外部リンク】から引用。”開通元宝”と読む説もある)で、621年に誕生、以後300年にわたり使用され、円形で中心に方形の穴を開けた形状も通例となった。また、日本の”富本銭(ふほんせん。683年初発行)”や”和同開珎(わどうかいちん。わどうかいほう。708年初発行)”などは、開元通宝を模して鋳造されたと言われている。
開元通宝は2銖半(唐代における1銖は1グラム半)の重さで、当時1両の10分の1にあたる重さであった。開元通宝の登場で両替も統一され、1両を10銭(せん)とし、1銭は10分(ぶ)、1分は10厘(りん)となり、ここで”銖”の単位は使われなくなったが、のちに日本で江戸時代(1603-1868)に一朱金(いっしゅきん。日本での”分”の4分の1、”両”の16分の1)として、”銖”を由来とする単位が使われた。

唐代では”行(こう。ホン)”とよばれる同業者ギルド(同業者組合)が、草市(そうし。江南地方を中心にできた定期市。もともとは城郭内の一定区域に設けられた”市”に対し、城外の非公認の交易場を指した)の商工業者によって次々とつくられていき、商業は活発化した。元来、”行”という語は隋唐代では”商店街”を意味したものであったが、交易の発展に伴い次第に同業者ギルドの意味として使われていった(”行”の語は現在でも”銀行”などの用語にその名残がある)。さらには遠隔地交易の発達や銭貨で納付することを基本とする両税法施行(780)に伴い銅銭の流通が活発化したが大量輸送に困り、また唐の末期になると地方が銅銭の外部流出をきらい、これにかわる送金手形制度(送金為替手形)が求められた。これを飛銭(ひせん)とよぶ。現金ではなく現在の為替のような証明書でもって取引の支払をするのである。唐代では飛銭制度で使われる手形を、「交子(こうし)」と呼んだ。
宋(そう。960-1279。北宋は960-1127。南宋は1127-1279)の時代になると、地方の草市は城郭内の市と規模が変わらなくなり、小規模な商業都市と化すものもあった。これらは鎮(ちん)・市(し)・店(てん)などと呼ばれ、商業がさらに発展した。飛銭においても、現金の代わりに取引に使われる手形が、現金と同様の価値をしっかりと持つようになっていった。
北宋時代、銅の生産に乏しかった四川地方では、銅銭ではなく鉄銭を発行したのだが、その重さでは流通手段として相当不便であり、これに代わる手形、交子が大いに必要とされた。交子は全国一律で価値が変わらないため、銅より価値の低い鉄の銭貨を用いた四川には好都合であった。四川の中心地である成都の交子発行者(金融業者など)たちで結成された”行”は北宋政府に四川での交子発行の必要性を訴え、政府もこれを認めた。四川で政府公認の交子が発行されることにより、その重要性が他のどの手形(当時は「会子。かいし」「交鈔。こうしょう。交抄とも。」「交引。こういん」「銭引。せんいん」などの手形があった)よりも重用された。北宋第4代皇帝である仁宗(じんそう。位1022-63)の治世に、交子は政府発行とされて民間での発行はできなくなった。やがて政府は兌換用の本貨幣を準備した上で、交子を兌換紙幣として流通することを決めた。この交子こそ、世界初の紙幣として誕生するのである。その後、南宋時代になると、会子も紙幣として政府発行され、さらには中国東北地方におこった金王朝(きん。1115-1234)では交鈔を紙幣化し、元王朝(げん。1271-1368)でも流通紙幣として用いられた。
しかしこれら手形から誕生した紙幣はその利便性から大量発行され、紙幣価値が下がり極端なインフレーションを招いて、流通価値を失ってしまった。金や元では交鈔の乱発で経済混乱におちいり、それぞれ弱体、滅亡の要因となっていく。

四川では鉄銭であったが、北宋時代での基本の銅銭では、開元通宝に加えて宋元通宝(そうげん)、太平通宝(たいへい)、淳化通宝(じゅんか)、至道通宝(しどう)など元号が改まると同時に鋳造された。これら宋代の銅銭を”宋銭(そうせん)”と呼び、これまでで最大の流通を誇った。さらに宋銭は、日本における平清盛(たいらのきよもり。1118-81)の政権時代(12世紀後半)、日宋貿易における重要な貿易品として日本に大量に輸出された。宋銭の単位は1個が1文(もん)で、1000個で貫(かん)と呼ぶ。宋銭による商業流通は主に宋代になって組合勢力の強くなった”行”に加え、手工業者によるギルド、”作(さく)”らの結成によりますます発展した。
明(みん。1368-1644)では、建国者である洪武帝(こうぶてい。こうぶてい。太祖。位1368-98。朱元璋。しゅげんしょう)の時代は、銅銭のみを正式な通貨として認められていた。主な銅銭に大中通宝(だいちゅう)、洪武通宝(こうぶ)などがある。通貨を銅銭に一本化していた理由として、宋代から民間での取引で徐々に広まりつつあった、不足した銅銭の代替として銀の地金(じがね)などの銀塊が銀貨代わりとなって流通していたことが挙げられる。さらに1375年、洪武帝は宝鈔(ほうしょう。大明宝鈔。だいみょう)と呼ばれる紙幣発行も行い、1392年には通貨を宝鈔に一本化、ついには銅銭の使用をも禁じた(1392-1435)。
第3代皇帝の永楽帝(えいらくてい。成祖。せいそ。位1402-24)の治世では永楽通宝(えいらく)が鋳造されたが、国内では銅銭の流通禁止によって流通規模がきわめて小さく、主に日本との勘合貿易(1401-1549。日明貿易)での日本への輸出品として鋳造された(日本では”永楽銭”と呼ばれる)。

宝鈔は貨幣と交換できない不換紙幣で、当然政府による銀貨鋳造がなかったため、民間で使われていた銀とも兌換できなかった。しかも流通は一方通行で、回収もされず発券されるがままであったため、たちまちだぶついて価値は下落していった。当時民間では相変わらず銀が根強く、紙幣の信用価値よりも重要視されたため、次第に宝鈔は使われなくなった。
そもそも通貨代わりの銀塊や銀の地金は馬蹄銀(ばていぎん。【外部リンク】から引用)などが秤量銀貨(しょうりょうぎんか)として使われた。含有量が不定で量目(りょうめ。重さ)がまちまちの銀塊や銀地金などを貨幣として交換取引などに使用するためには、天秤にかけて交換価値を計る秤量貨幣であることが条件であった。中国の秤量銀貨は銀錠(ぎんじょう)と呼ばれる。秤量銀貨は重さに価値があるため、よって価格の表示は刻まれない。重さの単位として両(りょう。テール)が使われ、さらに両の10分の1の重さを”銭”、その10分の1を”分”とし、約40グラムにあたる1両の銀貨から2キロ近い50両の銀貨まで存在した。宝鈔が失敗し、銀貨を発行しなかった15世紀の明国はその後銅銭による流通を復活させたが、これ以上に銀の勢いは増していった。
明代後半になると、明朝国内の銀が不足し、日本から日本銀を大量に流入(16世紀)、またフィリピンのマニラ(スペインが1571年建設)を貿易拠点としたスペインからも大量のメキシコ産の洋銀(メキシコ銀。墨銀。ぼくぎん)を輸入し、明国内における銀の流通は自然化していった。やがて銅不足におちいった状況から、銀を正式通貨として認めるべく政府も動き、時の明朝第14代皇帝、万暦帝(ばんれきてい。1572-1620。神宗。しんそう)の治世下、張居正政権(ちょうきょせい。第47代内閣大学士任1572-82)によって、田畑に課された地代や労働で納める夫役(ぶやく。労役)といった賦役の他、複雑化していた税を一本化することを目指して、丁税(ていぜい。壮丁、つまり16~59歳の成年男子対象の人頭税のこと。人丁)と地税(田畑税)を銀で納めるという一条鞭法(いちじょうべんぽう)を断行した。両税法以来の税制大改革の施行であった。のちに丁税は丁銀(ていぎん)、地税は地銀(ちぎん)と呼ばれた。これにて張居正政権では「万暦年造(ばんれきねんぞう)」といった銀貨が鋳造された。

明朝での銀の流通が完全に定着し、東アジアでは銀は基軸となっていった。次の清朝(しん。1616-1912)においても、明時代と同様、銀を中心に銀を通貨として使用した。当時の銀は庫銀(こぎん)と呼ばれたが、その理由は庫平(こへい)と呼ばれた秤(はかり)を基準に使用したことによる。また量目の単位である”両”は”庫平両”と呼ばれた。清朝においても一条鞭法を中心に税の徴収を行っていたが、康煕帝(こうきてい。聖祖。せいそ。位1661-1722)の即位50周年目にあたる1711年、一条鞭法を改革することになった。前年の段階で成年に達した男子(壮丁。そうてい)を調べたところ壮丁男子は2462万人が登録されていたが、清朝統一以降の人丁数の不正や貧困層の滞納、そして納税免除権の濫用(あらたな壮丁を戸籍登録させず、納入分は納税官や地方官の懐に収まるなどの不正)など、丁銀の明確な徴収は得られない状況であった。そこで、2462万人の壮丁男子を固定の丁銀として、これ以後あらたに壮丁となった男子を盛正滋生人丁(せいせいじせいじんてい)というカテゴリーに括り、彼らの丁銀は地銀に繰り込まれる形で免除され、一本化された地銀を銀で納める地丁銀制度の施行に踏み切った。これにて地主が地銀を納める形が一般化し、税制は簡素化されたのであった。次の雍正帝(ようせいてい。世宗。せいそう。位1722-35)の治世で地丁銀制度はほぼ全国に行き渡った。これまで税を逃れていた壮丁以上の年齢層に戸籍登録を行わせたところ、壮丁以上の人数が明らかになり、極端な人口増加となった。

銀の流通は王朝発展の屋台骨となり、1792年にはチベット専用の銀貨(”乾隆宝蔵”。けんりゅうほうぞう)も発行された。銅銭の発行に関しては、少額取引用として使用されるにとどまり、高額取引に際しては秤量貨幣(馬蹄銀などの銀錠)が使われた。そして、銀を本位貨幣(正貨)とする銀本位制がしかれ、銀と銅銭を併用するに至り、双方の交換比率も変動した。
19世紀前半ではイギリスに茶、絹、陶磁器を輸出し、イギリスはその代価を銀で支払ったことで、大量の銀が清国に流入した。ところが、アメリカ独立戦争(1775-83)に敗れたイギリスは北米植民地の財源を失い、さらに銀の国外流出を嫌って清との片貿易をイギリス、清、インドとの三角貿易(清からイギリスへ茶・絹・陶磁器、イギリスからインドへ綿織物、インドから清へアヘン。イギリスの輸入分の代価を、イギリスの支配下にあったインドのアヘンにあてる)に切り替えて打開を図ろうとした。清朝ではアヘン吸引が習慣化したうえ、アヘン禁輸を施行するもアヘンの密貿易は年々増加(1800~40年間でおよそ10倍の量に増加)、清朝国内ではアヘンの代金として支払う銀の保有量が激減するほど、国内のおよそ80%の銀が国外へ流出していったことで、イギリスと対立、やがてアヘン戦争(1840-42)へと突入することになる。
銀の大量流出となった清国は、銀の保有量激減にともない銀貨の価値が高騰した。そして、銅銭(当時の銅銭は”制銭”と呼ばれる。せいせん。明代後半からの呼称)との交換比率も急激に変わっていった。雍正帝没後即位した乾隆帝(けんりゅうてい。高宗。こうそう。位1735-9)の時代では、約37グラムの銀1両は銅銭700文ほどの交換であった。しかし銀の流出が始まった1830年で銅銭1200文、アヘン戦争勃発前で銀1両につき銅銭2000文の交換価値に跳ね上がった。地丁銀の納入は銀納のため、銅銭の使用が生活基盤だった農民などは所持する銅銭を銀に交換しなければならず、結局支払うべき納税額が跳ね上がる結果となり、生活が貧窮と化した状況下から、反清の太平天国(たいへいてんごく。1851-64)がおこるなど、、治安はひどく悪化した。なお、太平天国の指導者であった洪秀全(こうしゅうぜん。1814-64)や石達開(せきたっかい。1831-63)らも太平天国用の銅銭を発行している。

太平天国の動乱が収まり、その後到来した近代化運動(洋務運動。1860-94)の発展によって、清朝の国勢はやや安定した。光緒帝(こうしょてい。位1875-1908)の治世下、1887年には穴のない銀貨「光緒元宝(こうしょげんぽう)」が広東省で発行された。この銀貨は1枚の量目を規定の約0.72庫平両にし、”庫平7銭2分”と表記され、量目と品位を一定化して発行された。これは、量目で価値を決めるこれまでの秤量貨幣と異なり、規定された量目や品位に基づいて作られ、価格の表示があり、その個数を計数して交換取引できる計数貨幣(けいすうかへい)であった。この銀貨は「圓(えん。”円”の旧字体。銀圓)」が単位で、1枚を1圓とした。洋銀が円形だったことに因む「圓(yuan)」は、別称として同音字の”元(げん。yuan)”も代用した(元。銀元)。銀圓(銀元)は中国全土に広まっていく一方で、重さの”両”を単位とした銀両(銀圓や銀元に対して、これまでの庫銀は銀両という)は小規模化していった。1900年では「大清銅幣(たいしんどうへい)」や「光緒元宝」といった銅貨(銅元)も5種類(1文銅貨、10文銅貨など)発行された。

その後、清朝が滅亡(1912)して中国王朝時代が終わり、1933年には長らく機能してきた銀両は廃止され、すべて銀元に切り替えられた(廃両改元。1933.4。はいりょうかいげん)。そして1935年、蔣介石(しょうかいせき。1887-1975)率いる中華民国国民政府は、貨幣統一を目指し、政府系銀行の発行する不換紙幣の銀行券を法定貨幣(法幣という。ほうへい)とし、その価値はイギリスポンドとリンクさせて、法幣1元を1シリング2.5ペンスとする固定相場制を導入する改革を行った(幣制改革。1935.11。へいせいかいかく)。長らく中国王朝を支えてきた銀本位制は名実ともに終焉を迎え、管理通貨制度の時代へと突入した。翌1936年にはアメリカドルとも関係をきずいたが、長期にわたる日中戦争(1937-45)の影響で法幣は下落を続け、1948年に廃止となった。その後は兌換制度に戻るも、内乱の影響で混乱を極めた。

1948年末、中国共産党は中国人民銀行を設立、新たな銀行券を発行した。これが人民元(じんみんげん。中国では”人民幣”と表記。じんみんへい)であり、中華人民共和国の通貨として現在に至っている。

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